FAZER LOGIN神谷輝に会うことを決めたのは、それから三日後だった。
本当なら会いたくなかった。
十五年間、一度も連絡を取っていない。
私にとって彼は、できれば一生会いたくない人間の一人だった。
だからこそ皮肉だった。
今、私が最も頼れる人物が彼だったのだから。
KAMIYA CAPITAL。
数年前、MIZUKI DESIGNに出資した投資会社。
社長は神谷輝。
出資が決まったとき、名前は聞いていた。
けれど私は担当から外れていた。
会わないようにしていたのかもしれない。
自分でもよく分からない。
午後二時。ホテルのラウンジ。
私は窓際の席で待っていた。
「久しぶり」
声がして、顔を上げる。
十五年ぶりの神谷輝が立っていた。
黒髪。整った顔。冷静な目。
頬の線が少し鋭くなったくらいで、腹が立つほど変わっていない。
「久しぶり」
私も答えた。
輝は向かいに座り、コーヒーを注文した。
沈黙。
先に口を開いたのは輝だった。
「結婚したんだな」
「ずいぶん前に」
「知ってる」
「じゃあ聞かないで」
輝が少し笑う。
その笑い方まで昔と同じだった。
十五年前。
私たちは結婚するつもりだった。
少なくとも私はそう思っていた。
それなのにある日突然、「別れよう」と言われた。
理由は教えてくれなかった。
連絡先も変えられた。
私は三か月泣いた。
半年引きずった。
そして、二度とこの男を信じないと決めた。
「仕事の話をしましょう」
私はUSBメモリを差し出した。
「会社のお金が消えてる」
輝の表情が変わる。
「いくら?」
「三千万円」
「誰の承認?」
「拓真」
輝はUSBをノートパソコンに挿し、しばらく無言でデータを見た。
送金履歴。会社情報。承認記録。
五分。十分。
私はコーヒーに手をつけずに待った。
やがて輝が言った。
「玲花」
久しぶりに名前を呼ばれた。
胸が少しだけ痛む。
「これは横領だけじゃない」
「どういうこと?」
輝は画面をこちらへ向けた。
「このLUNAREST PARTNERS。代表者の桐谷修司」
「知らない人」
「俺は知ってる」
「誰?」
「企業整理専門のブローカーだ」
「企業整理?」
「表向きはコンサルタント。でも実際は、会社の資産や事業を別会社へ移す案件に何度も関わっている」
私は眉を寄せた。
「会社を潰すってこと?」
「可能性はある」
「拓真が?」
「まだ断定はできない」
輝は別のファイルを開いた。
「でも気になることがある」
画面に、いくつかの法人名が並ぶ。
「桐谷が過去に関わった会社だ。三社とも、一年以内に主要事業を別会社へ譲渡してる」
背中が冷たくなる。
「偶然?」
「三社連続なら、俺は偶然とは思わない」
「でも、拓真は会社の社長よ。自分の会社を弱らせてどうするの」
輝は私を見た。
「本当に自分の会社だと思ってるか?」
私は答えなかった。
MIZUKI DESIGN。
父が作った会社。
株式の多くは、私の家族が保有してきた。
拓真は結婚後に会社へ入り、経営能力を評価されて社長になった。
だが、会社そのものは父が作ったもの。
私が守ろうとしてきたものだ。
「玲花」
輝が低い声で言う。
「拓真さんは、会社を壊したいんじゃない」
「じゃあ?」
「君から会社を奪いたいのかもしれない」
その言葉が、妙にしっくりきた。
同時に、三日前の夜に聞いた電話を思い出す。
《玲花が気づく前に》
「もう一つある」
私は言った。
「美月とのメッセージ」
輝が眉を上げる。
「美月?」
「夫の愛人」
「そうか」
あまり驚かない。
腹が立った。
「何、その反応」
「今は浮気より三千万円の方が危険だ」
正論だった。
だから余計に腹が立つ。
私は、あの夜書き留めておいたメモを見せた。
《玲花さんの件、本当に大丈夫?》
《問題ない》
《来週までには片づく》
輝の顔から笑いが消えた。
「これはいつ?」
「四日前」
「何か予定は?」
「来週、取締役会がある」
「他には?」
私は考えた。
「車の点検」
輝がこちらを見る。
「何?」
「私が乗ってる社用車。来週、メンテナンスに出す予定なの。拓真が予約してくれた」
沈黙。
私は笑った。
「まさか」
輝は笑わなかった。
「車は使うな」
「考えすぎよ」
「玲花」
声が強くなる。
「俺は仕事で、人が会社を奪うところを何度も見てきた」
「……」
「金が絡むと、人は何でもする」
私は窓の外を見た。
都会の景色は何も変わっていない。
なのに、私の生活だけが少しずつ崩れていく。
「取締役会までに証拠を揃えたい」
私は言った。
「拓真を解任する」
「急ぐな」
「どうして?」
「相手が何をしてくるか分からない」
「だから急ぐの」
輝は黙った。
やがて。
「分かった」
そう言った。
「俺も調べる」
私は立ち上がった。
「ありがとう」
「玲花」
呼び止められる。
「一人で動くな」
「大丈夫」
「昔から君の『大丈夫』は信用してない」
私は振り返った。
「十五年前に捨てた人に言われたくない」
輝の表情が止まった。
ほんの少し、傷ついたように見えた。
でも、それ以上は何も言わず、私はその場を離れた。
このとき、輝の言葉を聞いていればよかった。
車は使うな。
たったそれだけの言葉を。
午後十時五十五分。MIZUKI DESIGN旧本社。二年前に本社を移転してからは倉庫として使われ、今は売却を待っているビルだ。人の気配はほとんどない。一階の暗いロビーに、私は一人で立っていた。見える範囲では、本当に一人。でも、輝は別室にいる。美月もいる。警備会社のスタッフも建物内にいる。音声も映像も、弁護士のもとへ届いている。午後十一時。自動ドアが開き、拓真が入ってきた。一か月以上ぶりに見る夫だった。痩せた。髪も少し乱れている。でも、十年間毎日見てきた顔だ。拓真は私を見て、止まった。本当に、幽霊を見たような顔だった。「……玲花」私は答えた。「久しぶり」彼の唇が震える。「生きて……」「残念だった?」「違う!」拓真が近づこうとする。私は一歩下がった。「そこにいて」拓真が止まる。「玲花、聞いてくれ」「聞くために呼んだの」「全部誤解なんだ」思わず笑った。「便利な言葉ね」「俺はお前を殺そうとなんてしてない」「じゃあ、何をしたの?」「何も」「ブレーキ」拓真の顔が変わった。ほんの一瞬。でも、見逃さない。「何の話だ」「LUNAREST PARTNERS」沈黙。「三千万円」「会社の正当な支出だ」「私の辞任届」「会社として必要だった」「事故の二日前に?」拓真が黙る。私は一歩前へ出た。「MIZUKI DESIGNのお金を移して」もう一歩。「資金繰りを
美月からUSBを受け取ったのは、翌日の夜だった。場所は、輝が指定したホテルの地下駐車場。人目につかない場所だ。美月はタクシーで来た。帽子を深く被り、何度も後ろを振り返っている。「これです」差し出された小さなUSBメモリを、私は受け取った。「中身は?」「拓真さんとの会話です」「いつの?」「玲花さんの事故の前日です」私は輝を見た。彼がノートパソコンを開き、USBを挿す。音声ファイル。日付は、事故の前日。再生。最初に聞こえたのは、グラスの触れ合う音。店内のBGM。そして、拓真の声。『明日で終わる』私は息を止めた。美月の声。『何が?』『玲花のこと』『どうするつもり?』少しの沈黙。『しばらく会社から消えてもらう』『それって……』『心配するな』そこで一度、録音が途切れる。次のファイル。拓真の声。『ブレーキだけでいい』私の手が止まった。『死ななくても、しばらく会社から消えてくれればいい』美月。『そんなことしたら事故になるでしょ』『事故になればいいんだよ』空気が凍った。私は何も言えなかった。録音は続く。『もし死んだら?』美月の声。そして、拓真。少し笑っている。『それならそれで、面倒が減る』そこで、私は再生を止めた。それ以上は、聞けなかった。輝が無言でパソコンを閉じる。美月が泣いていた。「ごめんなさい」私は彼女を見た。「カフェで、車のことは知らなかったって言いま
拓真は確信していた。玲花は生きている。写真。メール。消したはずの情報を知っている。偶然ではない。問題は、どこにいるか。誰といるか。そして、どこまで知っているか。拓真は一人の男に連絡した。「女を探してほしい」『誰です?』「水城玲花」沈黙。『事故で行方不明の人じゃ……』「生きてる」『警察は?』「余計なことは聞くな」拓真はいくつかの住所を送った。玲花の友人。親族。そして、神谷輝。その名前を打ち込んだとき、拓真の眉が動いた。大株主。玲花の元恋人。事故の前に、二人が会っていた記録もある。「神谷……」嫌な予感がした。◇その頃、私は隠れ家の窓辺に立っていた。夕方。外は静かだった。輝は仕事の電話をしている。私はコーヒーを飲んだ。昨日の喧嘩以来、少し気まずい。でも今は、それより考えることが多すぎる。証拠。拓真。これからのこと。ふと、道路に目をやる。一台の黒い車。見覚えがある。さっきから、ずっと停まっている。エンジンは切っていない。私はカーテンを少し閉めた。「輝」「何」「外」彼が近づいてきて、窓の外を見る。表情が変わった。「どれだ」「黒い車」「いつから」「分からない」輝はスマートフォンを手に取った。「ここを出る」「今?」「今だ」「大げさじゃ……」「玲花」
私と輝は、また喧嘩をした。理由は、十五年前のことだった。「もう逃げないで」私は言った。「逃げてない」「じゃあ話して」輝は黙る。「お父さんに何を言われたの」「玲花」「もうお父さんはいない」父は六年前に亡くなった。だからこそ、今さら本人には聞けない。「知りたいの」輝は窓の外を見た。そして、ようやく口を開いた。「当時、会社はかなり危なかった」それは知っている。あのころ、父の会社は資金繰りに苦しんでいた。「銀行から追加融資を受ける必要があった」輝が続ける。「そのとき、大手企業の創業家との縁談が持ち上がった」「私の?」「そう」「それとあなたが別れることに、何の関係があるの」「相手の家が、君に恋人がいることを気にしていた」私は言葉を失った。「お父さんが……」「俺に、別れてほしいと言った」「それで別れた?」「そうだ」怒りが湧く。「私に相談もせずに?」「相談したら、君は父親と会社を助けるために、自分を犠牲にした」「勝手に決めないで!」「分かってる」「じゃあ、その縁談は?」輝は少し苦しそうに答えた。「結局、成立しなかった」「……何?」「君のお父さんは、別の金融機関から資金を調達できた。正式な婚約になる前に、話はなくなった」「じゃあ」私は笑った。笑うしかなかった。「何のために別れたの?」輝は答えない。「そのあと、戻ってくればよかったでしょう」「戻ろうとした」初めて、輝がそう言った。「会社が持ち直した半年後に」私
翌日。会社のサーバーから、複数のファイルが削除され始めた。会計。契約。社内メール。私は監査用バックアップの画面を見ていた。「始まったな」輝が言う。「拓真が気づいた」通常のサーバーからは消えていく。でも、監査用バックアップには残る。「消せば消すほど、操作ログも増える」私は言った。削除を実行している管理者IDは――青木。退職したはずの人間のアカウントが、まだ生きている。「青木さんは、まだ拓真とつながってる」◇その日の夜。拓真のスマートフォンに、一枚の写真が届いた。送り主は、彼が雇った調査員。《この女性ではありませんか?》小さなカフェ。帽子。眼鏡。横顔。変装としては悪くない。しかし、十年一緒に暮らした夫には十分だった。拓真は画面を拡大した。手。鞄の持ち方。俯いたときの首の角度。「玲花……」もう一枚。店を出る女性。その後ろに、神谷輝。拓真は確信した。玲花は生きている。そして、神谷と一緒にいる。恐怖が、一瞬で怒りに変わった。拓真は電話をかける。「間違いない」低い声。「水城玲花だ」◇その頃、私は三通目のメールを作っていた。《拓真へ。会社のサーバー、ずいぶん整理してるみたいね。でも残念。消す前に全部見た。青木さんにもよろしく。玲花》輝が画面を見て言った。「送るのか?」「送る」
カフェを出たあと、私たちはすぐに場所を移した。輝の車の後部座席には、美月も乗っている。「本当に会社の車だった?」輝が聞く。「はい」美月が答える。「ナンバーも覚えてます」私はそれをスマートフォンにメモした。「誰が運転してた?」「分かりません」「拓真?」「違うと思います」私は窓の外を見た。では、誰なのか。会社の中に、まだ誰かいる。拓真の協力者が。隠れ家へ戻ると、私は以前保存していた経理データをもう一度開いた。ひとつの名前が浮かぶ。青木。経理責任者。《この件は、あまり触られない方がいいかもしれません》あの言葉。「まさか」でも、調べない理由はない。私は監査用バックアップの人事データを開いた。答えはすぐに出た。「青木さん、辞めてる」「いつ?」輝が聞く。「事故の三日後」私は息を止めた。退職理由は「一身上の都合」。記録にあった番号に電話をかけてみる。つながらない。輝が人を使って自宅を確かめると、すでに引っ越したあとだった。私は椅子に座り込んだ。「逃げた」輝が言う。「もしくは、逃がされた」青木。父の代からいる人。私が子どものころから知っている人。会社で何度も助けてもらった。その人まで。「裏切ってたのかな」声が少し震えた。輝は答えなかった。そのとき、美月からメールが届いた。《青木さんのことなら、少し知ってます》私はすぐに電話をかけた。「何を?」『拓真さんと、よく会ってました』







